昭和51年02月05日 朝の御理解



 御理解 第27節
 「昔から、あの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃという者でも、だんだん不幸なことが重なって、世間ではどういうものであろうかというようなことがあろうが。なにほど、人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておかげを受けるのとは別ものぞ。」

 道徳的な生き方をいけないというわけではないですけれども、それはなら幸不幸にはあんまり係わり合いはないと言う事。例えば東洋思想というですか、シナから来た思想の中にそういう道徳を重んじると。日本人もやはりそういういうならば、感化を受けた教育を受けてきた。いわゆる修身科と言った様なもんは、そんなもんである。それは成程まあ道徳的な生き方をすると言う事は、悪い事ではない。
 そりゃも良い事には間違いないけれども、ならそれでそんなら人間が幸福になると言う事では決してない。ね、矢張り教祖様がここに喝破しておられますように、ね、神信心によらなければ人間な幸福にはなれないんだと本当の幸福。おかげを受けると言う事、ね、いうならばだから正直の頭に神宿るとか、ね、自分の踏み行うておる道に間違いがないならば祈らずとても神は守らん、とかと言った様な事は嘘だと言う事になります。教祖はそこん所を教えておられるわけですね。
 私どんな信心はせんけれど、真っ直ぐい生き方だけしよりゃそれで良いと。それはいわゆるいかにその道徳的な、思想にまぁいうならば幻惑されとるわけです。ね、だから道徳的な思想であってはならん、まあ道徳的であって悪いと言う事じゃ無い、正直であって悪いと言う事ではない。けれどもですいうならば、その清貧に甘んずると言った様な事になり兼ねないのです。ね、信心しておかげを受けると言う事はです、ね、いうならば貧相病のない世界に住む事が出来る、いわゆる真善美に輝く世界に住む事がでける。
 人間のいうならほんとの幸福という、心の底から有り難い勿体無い、という生活がでける。それを目指すのが信心です。ね、道徳的なまあ表現の中に、勧善懲悪というのがあります、ね。昔からお芝居とか、まあ映画なんかでもそうです。善をいわば勧め、いわば悪を懲らしめると、言った様な例えばお芝居でも、ね、良い事をしておりゃ良い報いが来ると悪い事をしとれば、一辺は必ず悪い結果になるんだと。けれども道徳的な表現で言うとそうのごたあるけれども、実際はそうでないです。ね、
 良い事をしておっても正直者でもです、いうならば正直者が馬鹿を見ると言った様な結果で終わってしまうような、例が沢山あるいわゆる清貧に甘んずるである。ね、だから道徳的な生き方が悪いのじゃないけども、それで人間が幸せになると言う事では決してない、と言う事です。あれはどこまでもお芝居だと言う事です、映画というだけです。いわゆる勧善懲悪という、ね。最近では例えば映画でも芝居でも。
 その勧善懲悪と言った様ないうなら終幕が、ハッピーエンドに終わると言った様な、映画はあんま受けない。真実性を欠くからです。ね、はあラストシーンが素晴らしかった、と言った様な映画は、ね、先がどげんなるじゃら分からんと言った様な所で終わりに成る様な映画とか芝居が、素晴らしかったというでしょう。ね、とくになら昔のあの歌舞伎芝居なんかみんなそうです。勧善懲悪です。
 それこそ最後にはどんでん返しで結局善人だけが助かって、悪人は滅びて行くというそれですけども、ね。それは言うなら道徳的な生き方をすれば、というけども実際は、そうではないんだと、ね。そこん所をひとつはっきり、私は踏み違えんようにして、参りまして、そして信心させて頂けば、かくおかげが頂けるという、いわゆる教祖のお言葉を、そのままに実証していくという、ね、証しを立てていくというほどしの、おかげを皆さんが頂きなさらないと、なら宗教というか、金光様の御信心というならば。
 一般で言う道徳的なものともう混同する。そしていかに正直であっても、道徳的であっても、人間の幸せとはさほど関係はないんだと。いやむしろ正直者がバカを見ると言う様な、貧乏くじを引かなきゃならないような結果すらが、おおにしてあるんだと言う事をね、私はハッキリしていかなきゃいけない。ね、昨日皆さんに聞いて頂いたお話、昨日のご理解は、こう言うタイプの人は、お徳を受けてこう言うタイプの人はおかげが、お徳が受けにくいと言った様なふうに大体聞こえたですけども。
 実際はそうではないです。ね、どこまでもいうならば、信心で言う勧善懲悪です。ね、信心を頂いて勧善懲悪と言う事になると是はもう絶対間違いがないです。信心によってです、ね、いうなら教えを行じて言うならば、善を勧めて悪を懲らして行くと言う事は、もう天地が自然がそういう働きを必ず示してくれます。だから道徳にいわば超道徳という私は宗教をそういうふうに申しますけれども、というものがそれに加わらなければ、ね、もうどんなに苦しかっても。
 そこを有り難く有り難く頂きぬいていきゃ、神様がちゃんと見てござる。信心とは神様が見てござる聞いて御座る世界に生き抜く事だから、必ずお徳を受けます必ずおかげを受けます、と言う事になるのです。だから信心によればもう絶対終幕は、いわゆるハッピーエンドです。ね、そのいうならば、まっ昔昔というが劇中劇ちゅうのがありましょうが。劇の中にまた、ね、雪乃丞変化なんかあの面白いのは、その雪乃丞が歌舞伎役者ですから、その歌舞伎のお芝居をいく幕でも中にこう、入れて挿入してある。
 筋の中に。それは筋そのものじゃ無いけれども、その劇中劇そのものがね、いわゆる見せ場になっているわけです。昨日原さんの話を致しました。又は繁雄さんのお話を致しました。あれは言うならば劇中劇なんです。あれが筋じゃ無いのです。ね、んなら本当の筋はならどこにあったかと、ならどこを分からせて下さろうとする、いやどこを神様が進めて下さろうとしておるかと言う事はです、必ずしも原さんの生き方、繁雄さんの生き方が良いというのじゃないのです。
 あれは劇中劇です言うならば。ね、昨日は神愛会で昨日先生方、殆ど何時も見える方全部見えておった。昨日は田主丸の若先生も、始めて参加されました。まぁ熱心に、まっお話を聞いて下さったんですけれども、私西岡先生が一月の丁度一月一日から、三十一日までのご理解を、まぁいうならばさわりの所だけを抜粋して、あの最後に読まれましたが、素晴らしいなあと私は思うたです。
 三十一日間ずうとその言うなら、さわりの所だけをさわり集です。なかに誰だったか神徳入門と言う事を言っておりますね。ね、神徳例えば昨日のご理解は、なら皆さんも昨日のご理解を頂きよって、はあ私もお徳を受けていきよるな、もうはいり口までぐらいあるなと私は合楽の皆さんの、ね、熱心に朝参りでもなさっておられる方達は、先ずは殆ど御神徳にも触れていきんなさる、もう入門しとんなさる。
 けれどもこれは限りなく頂けるものであって、無尽蔵に頂けるものであって、そのどの辺におるかと言う事は、ただはいっとるだけだと言う事でございましょう。ね。なら例えば昨日のご理解の、まああの原さんとか繁雄さんの話をまあ、劇中劇だとあれは本当の筋じゃないんだと。筋はどこにあるかというとね、これも昨日鳥栖の上野さんの所のお父さんが、亡くなられて丸二年になります。
 式年じゃないけれども帰幽日ですから、昨日は子供さんたち皆しんせき集まって、ここで帰幽祭がございました。上野先生一時のご祈念ですから、上野先生が当番でしたから、上野先生が奉仕させてもろうて、私はここからその事をお取次ぎさせて頂いておりましたら、御心眼に頂きます事がね あの昔はてならいをするときにはもう真っ黒になるように書きましたよね。ほこになるように書いてはその上に又書き、書いて又その上に書きと言う様に致しました。
 そのもうそれこそ白かとこがいっちょんない位に、真っ黒いその紙と白紙とこうあって、取り替えて頂く所を頂いた。これは御霊様だって私共人間だって、信心をしておる一つの悟りを心の中に開かせて頂いて、いわばお国替えのおかげを頂いておると、死んでもやはり一生懸命精進をしております。いうならば仏教的に言うと、成仏する事を願っておるわけです。ね、例えばあの死ぬる事ををもう成仏というがそうじゃない。成仏と言う事は仏になると言う事です。ね。
 例えばお釈迦様は生きながらにして、仏になられたとと言う様にです、そのならお道の信心ではどう言う事を言うかというと、お道の信心はどこまでも、ね、総お道の信者、奉者がです、生神を目指すと言う事なんです。ね、総信者がです生神を目指すと言う事です。ね、そして全ての様々ないうなら問題もある、難儀もある事柄をです、その生神への手がかりとし、又は足がかりとしていくというのが、お道の信心の進め方なんです。だから、昨日のご理解を頂いて頂いてです、ね。
 生神への手掛りであり、生神へ精進して行く所の足がかり、それが筋なんです。ね、ですからなら何十年信心をしておってもです、ただお参りをするおかげを頂くと言う事だけの為の信心だったら、御霊になってもその精進する事を知らないわけです。ね、だから結局なら御霊達んでも、その事をいわば、ね、金光大神の世界にご縁を頂いておるのですから、あなた方も御霊様たちも、だから金光大神の世界に縁を頂いておるのであるから、金光大神の世界に住まわせて頂けるような。
 修行をなさらなければいけませんと、これは皆さんにも言うだけではなくて、御霊様にもそれを進めるわけです。ね、知らずに死んだ御霊が始めて、はあほんとに金光大神の世界に縁を頂いておったと言う事が有り難い、そこから信心の稽古をさせて頂いて、御霊様もやはり、ね、神になり神に祀られる事を楽しみに信心の修行をするわけです。信心も手習いも同じ事、と言う様にですなら御霊様もその事を分からせてもろうて、一生懸命言うなら、手習いの稽古をしておる。
 なら昨日の上野さんの所のお父さんの御霊様は一生懸命、御霊ながらにも、御霊の位の進んで行く事を、神に向かって精進しておる姿が、そのもう、ほこになるほどしの、その手習いの真っ黒になっとるような紙だと。真っ黒と言う事はやっぱ苦労と言う事、修行と言う事、そういう修行をしておる、それがそのままなら、上野の一家の上にも丁度今そういう修行があっておるという感じです。
 そこで昨日の御霊の式年の、いわば帰幽日にそれこそ、御霊様のお喜び頂ける様な、ね、御霊様が甘いものが好きだったから、辛いものが好きだったからというて、いうなら甘な辛なの一つも取り揃えて、ご祈念をして頂く。ね、そしたらそういうなら働きがです、言うならば、その真っ黒いほこ紙と白紙を取り替えて頂くほどしの働きがあると言う事なのですから、いかに例えば御霊様を大事にしなければならないか、ああいうひとつの帰幽日なら帰幽日と言う様な、機会というものはめったにないものだと。
 いわゆる一年に一辺しかないのですから、ね、その帰幽日なら帰幽日を大事にして、あれはねその手習いをするというても、あの真っ黒く書いた上に幾らかいても、上達あんまりしないと言う事ですね。やっぱり度々白紙に書いたが一番ほんとはいいわけです。ね、なんというか草紙というですかね。ね、御霊様も成仏を願いいうならば、神になり神に祀られる事を、の精進をしておる。なら私共もまた、ね。
 神になり神に祀られる事をです、ね、楽しみに信心をせよと仰るように、そういう私どもが生き神を目指して進んでいくと言う事、それはぴんからきりまであります。ほんなら神徳入門入ったばっかり、ね、まだ入り口でぐずぐずしておるという人も沢山なありましょう。だからおかげではなくてその、ほんとのおかげというのは、わが心が神に向かうていくと言う事がおかげなのです。ね、だから一年一年有り難うなっていくのです。そういう楽しみというものがです、ね。
 楽しゅうして嬉しゅうしてという信心に、ならなければいけません。ね、皆さん教祖がここにはっきり仰っておられる。あの人は神様仏様のごたる人、ほんと正直な人というても、次々難儀なことが起こってくると、なら自身でもです私はもう、正直にやっていきよるけんで、決して別に神様仏様拝まんでん、と言う様な人もあるけれども、それでは人間が幸せになれないということを、はっきり分からにゃいけません。道徳的な生き方ではです、道徳的な生き方が、悪いということではありません。
 人に迷惑をかけない、ね、正しい生き方をするというだけであって、それには何の言うならば利益も伴わないと言う事です。ね、ただ道徳的な観念から、昔の人が言うた正直の頭に神宿る、そげな事はうそです。祈らんでも、ね、踏み行く道が間違ってなかったら、ね、神様は守ってくださるという考え方は、間違いです。絶対神様は守んなさらんです。ね、大きな意味においてのご守護はあっていますよ。信心があってもなくても、いわば、おかげはやってあると仰るおかげなのです。
 けれどもならさあ、それで病気が癒えたり、ね、言うならば貧、争、病のない世界に住むと言った様な事は出来んのです。愈々真善美に輝くと言う様な、輝かしい生涯である事は絶対ないです。これはいわゆる真の信心をしなければ、そういうおかげは受けられない。勿論心が助かっていくです。いかにも道徳と宗教、教えがよく似とるようですけれども、絶対似てはいない、異質です異質のものです。教えによって教えをあの、身に付けていくと言う事は、道徳を身に付けていくと言う事は違うです。
 場合にはです、非道徳のような場合があります。宗教の教えの中には。ね、ですから私共せっかく、なら金光大神の世界に縁をこうして頂いたのですから、金光大神の世界に住まわせて頂くほどしの、一つおかげを頂きたいと言う事です。金光大神の世界に住むと言う事はです、もう一切がおかげだという見方の出来れる世界です。あれもおかげであった、これもおかげであったと言う事が分かるようになると、本当の信者じゃと仰る。その本当の信者を目指すと言う事なんです。ね。
 その中に断片的にですなら、繁雄さんの話やら原さんの話やらが、いわゆる劇中劇のようにしてあるだけの事であります。ね、だからそれがね続かなければならない。それにはまず、ならそういう金光大神の世界に住む事を願いとする、いうならば生神を目指しての精進である。自分のいく手にはまだ難儀な事が一杯、困った事が一杯、ね、その難儀な事困った事と思っておった事がです、生神への手掛りだ足がかりだ、と言う事が分かって来る時に、その事にいうならば、取り組む姿勢が変わってくる。
 人が良いのと神に信心しておかげを受けるのは別ものと、その別ものである事をです、今日は少し深めて聞いて頂いたんです。ね、例えば生神を目指していなくても、金光大神の世界に住むことを目指してはいなくても、ね、例えばずるい人、ね、あんまり世間では評判の良くないような人でも、お取り次を頂いておかげを受けると言う事は、矢張り言うならば善人でも、信心がなからにゃおかげが受けられないように。
 悪人でも矢張りおかげが受けられると言う事。そこでなら信心させて頂くものがです、間違いのない目標目的に向かって信心を進めて行くと言う事になれば、愈々お徳の世界に入って行く事が出来る。始めて成程道徳と信心の違いをはっきり、私共がね私共の生き方によって、その実証証しを立てていかなければいけません。それが金光大神を世に現すと言う事なのです。ね。
 金光大神もやっぱし、えらい事を言うちゃりますですねここでは。正直者とか人に悪いことをせんとかと言う様なことではいかん、ち言っておられるわけです。それでは幸せになれない、ね、当時のなら日本中の人達はです、ね、そういう正直な生き方をすれば、いわゆる勧善懲悪と言った様な事を、まあうすうす信じておった。だから悪い事はしちゃいかん、と言った様ないうならばあの。思想の中に皆が生きてきた。ね。
 けどもこれは全く嘘だと言う事が、勧善懲悪というのはどこまでも、あれはお芝居だと言う事。いうならば道徳的にならせる事のために、善を勧めるためにいわば勧善懲悪のお芝居なんかは出来たんだと。所が一たびそれがなら道徳ではない、信心による教えによる、ね、成仏を目指すいうなら生き神を目指しての信心にならせて頂くときに、もう必ず是は絶対勧善懲悪と言う事がになると言う事です。ね。
 どんなにそれこそ人からバカのように言われておってもです、どんでん返しにちゃっと、矢張りあの人たちが信心しござったから、ああ言うおかげを頂きなさったという世界に出る事がでけるです。けどもただ信心しております、拝んどりますだけではいけん。問題は目指す所が間違いない所に置かれておられなければならん、と言う事です。お道の信心をさせて頂いて始めてですいうならば。
 ハッピーエンドで終わらせて頂ける。終幕を得ることが出来るのです。ほんとに神様が見ておいでの世界に生き抜く事が信心だから、例えどういう中にあってもです、それを信じていく。おかげを頂いていきます所にです、ね、神様がちゃんと悪は悪、善は善とはっきりそれこそ、詳らかにして見せて下さるおかげの受けられる信心です。だからそういうおかげを私どもが頂いてです、いわゆる実証していかなければならんと言う事を今日は聞いて頂いたですね。
   どうぞ。